こんちゅう

エッセイ・小説・ブログ・楽譜置き場。 不定期更新。

君の名は。ピアノメドレー

を、土曜日丸々使って作りました。これが受験生です。


君の名は。 ピアノメドレー

 

 

音ズレが発生している。画質悪い。音質悪い。なんてこったい。まあいいや。

 

 

それと、MuseScore2がリリースされていたんですね。まだ本格的には触ってないですが、使いやすそうで良かったです。

 

以下楽譜

f:id:wotto27oct:20161023160147p:plain

f:id:wotto27oct:20161023160243p:plain

f:id:wotto27oct:20161023160246p:plain

f:id:wotto27oct:20161023160253p:plain

f:id:wotto27oct:20161023160257p:plain

f:id:wotto27oct:20161023160301p:plain

f:id:wotto27oct:20161023160312p:plain

f:id:wotto27oct:20161023160644p:plain

 

2016/10/16

 

長谷川豊のブログは何が問題だったのか?

模試受けてきました。しんどい。

 

 

さて、最近話題になっているこの人。ブログに人工透析患者に対して「殺せ」と表現したことで大炎上しています。

「ネットのブログだから大したことではないと思っていて・・・」「一部の過激なネット弁慶が・・・」「そもそもこれが彼のスタイルで・・・」とかいろいろな議論が交わされていますが、私はそんなことは大した問題ではないと思っています。

 

本当に問題なのは何か。言うまでもなく、「殺せ」と書いたことですね。

人を「殺す」ということは、その人の命を奪うということ。命を奪うと明言したからには、たとえどんな理由を持っていようと、自分の命を賭けなければならない。

自分の命を賭けるとはどういうことか。その措置により誰にメリットがあり、誰にデメリットがあり、社会にどんな影響を与えるのか。人々に認められるのか。誰かが苦しみ、泣き寝入りするような結果にならないのだろうか。それらを真剣に考えて、文字通り自分の人生を捧げて、その措置が適用されるような社会に自ら変えていく。そのくらいのことをしなければならない。誰かを殺すとは、そのくらいデリケートな問題なのです。このことは、歴史が証明してきました。

決して、ブログなんかで半笑いになりながら書くような内容じゃない。たとえ、いくらその理由が正しくとも。

 

だから私は、ヘイトスピーチで、「~を殺せ!」と言う人がいるならば、その人を侮蔑します。私自身、「殺せ」という言葉は絶対に使わないです(ゲームは除く(´・ω・`))。どうしても嫌な人がいるならば、心の中でそっと(あぁどうか、僕の知らないところで幸せになってください)と願うのです。

 

何の同情心もなく、考えなし「殺せ」という言葉が萬栄する社会になってしまったなら、それは中世の社会です。我々は現代人なのだから、戦争の恐ろしさを知っているのだから、こういった言葉がどこにもないような平和な社会を築き上げたいですね。

 

とりあえず長谷川さんには、漫画「暗殺教室」をお勧めします。(ステマ

 

 

2016/10/9

田舎に住みたい

君の名は。を観てきました。50年に一度の傑作ですねアレは。

 

さてそんな訳で私はド田舎に住んでみたい。いや、住むまではいきたくない。コミュ障が爆発して村人たちに仲間外れにされる日常が送れそうです。
田舎に行きたい。
海を望む寂れた港町なんかをぶらぶら歩いてみたいものです。
 
 
ちなみに君の名は。に出てきた糸守町の湖のモデルとなったのは諏訪湖だとか。
大学生になったら行くかな・・・
 
ということで空気中のCO2濃度より薄い今週の更新終わり。(投げやり
 
2016/10/2

物語の順序が入れ替わる

駿台模試を受けてきました。物理難しかったですね。

 

 

ところで、小説や映画、漫画などを見ていて、ふといたく感動する瞬間ってありますよね。私にも何個かそういう経験をした作品があるのですが、初めて見た時から何年か経ってもう一度そのシーンを見てみると「あれ・・・こんなもんだっけ」と違和感を覚えることがあります。

勿論、2度目なので最初ほどのインパクトが無くなったというだけの話なのかもしれませんが、どうやら自分の中で覚えているストーリー展開と、実際のストーリー展開が合っていないようです。

 

私の記憶:Aという事柄が起きた → Bという事柄が起きた(感動!)

実際:Bという事柄が起きた(!?) → Aという事柄が起きた(・・・)

 

具体的な作品を挙げてしまうと、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』ですね。

私が小学生のころTVで放送していて、親が面白いと勧めてきて一緒に見た記憶があります。すごく感動しました。特にあのラストシーンですね、圧巻でした。

 

時は経ち2016年、dTVでクレヨンしんちゃんの映画が配信されていると聞いて、懐かしいなぁ、と思い、つい見てしまいました、受験生の夏。

もちろん感動しました。小学生のころには分からなかったネタも分かるようになり、とても面白かったです。でも何かが違う。何が違うって、物語の順序が違うんだ。私の思っていた順序と違うんだ。

 

・・・と、別に何を考察するという訳でもなく、私の少し悲しい気分になった夏の夜のお話でした。

 

 

2016/9/25

 

「日本eスポーツリーグ」の何が問題なのか?

先日、TGS東京ゲームショウ)にて発表された「日本eスポーツリーグ」。

www.negitaku.org

 

ついに待望のeスポーツ・プロリーグが始動しましたね。

2016年はeスポーツ元年です。これからますます発展していくことを期待しましょう。

 

・・・しかし中身を見てみると「んん?」と言いたくなるような所も。

私は普段こういうことはしないのですが、個人的に考える「日本eスポーツリーグ」の問題点をまとめてみました。デトも負けたしね。いいことないよほんと

 

①人選

 

矢口真里はアカン

 

何を考えて彼女を公式サポーターにしたのでしょうか。イメージダダ下がりとかいうレベルじゃないですよ。

いや分かりますよ。お金がなかったんでしょう。お金がなかったところに丁度不倫問題で仕事がなくて事務所が大安売りしている芸能人を見つけたんでしょう。それが矢口真里ですよ。それでもアカン。せめて最低限、ゲームを趣味とする人を見つけるべきですよ。いやまぁ矢口真里さんはどうせ「小学生のころからゲームが好きで~」なんでしょうが。

 

実際twitterなど見ていても、eスポーツリーグの話より矢口真里の話してますからね。eスポーツリーグのことなんて頭に残ってないですよ。

 

②既存のチームガン無視

日本における「eスポーツ」をここまで育ててきたのは誰でしょうか?間違いなく、各オンラインゲームの運営の方々、そしてdetonatorやdetonationといったプロチーム、そして何より選手達の力によるものです。それらを完全にスルーして独自チーム・独自リーグで利益を掻っ攫おうというゲスの極み

・・・いや知らないですよ?もしかしたら既存チームと連携して話を進めるのかもしれないですね。私が無知なだけで。

ただ、detonatorのトップ、detonationのトップの2人がこの話題について全く触れていないところを見ると、察するところもありますが。

 

③今からメンバーを集めるのには無理がある

overwatchが発売されて以降、次々とプロチーム・セミプロチームが誕生しました。

それらがJCGのsummer finalで熱い戦いを繰り広げていたのは、見ていて本当に楽しかったです。

しかし、なぜこのようにチームが乱立できるのか?それは一部のプロチームを除いて、ちゃんと社会人として仕事を続けられる、または学生として勉学に励み続けることができるからなんですよね。

10年後にどうなっているか分からないeスポーツのために、そしてまだ一切戦績を残していないチームのために自分の人生を賭ける人っていうのは本当にごくわずかでしょうね。

 

もしかしたら、eスポーツリーグのチームに所属しながらも仕事を続けられるようなシステムなのかもしれないですね。でもそうだとしたら、いよいよプロリーグってなんだっけ状態になるでしょう。今までの奴と何が違うねん。

 

④そもそも「地域に根差す」意味が分からない

オンラインゲームって日本全国どこからでも同じサーバーでプレイすることが出来るんですよ。それなのにわざわざ地域ごとに区切る意味が分からない。

関西圏に住んでるから大阪のチームを応援すると思った?微塵も愛着を感じませんよ、たぶん。観客が選手を応援するのって、配信とかを見てそのプレイやトークを好きになるからなんですね。

 

 

・・・とまぁ色々書きましたけれど、実際始まっていないので分からないっていうのが本音ですね。しかし、既存のチームや選手と上手く連携しないと、「日本eスポーツリーグ」は大爆散して終わるのは目に見えています。これからのflexibleな対応に期待です。

 

 

2016/9/18

人が笑いを感じる方法

最近まで私は、人が笑うのは他人を馬鹿にするときなのかなぁと感じておりました。

というのも、例えば漫才などでは、ボケ担当の人がいるじゃないですか。その人が何かおかしなこと――つまり、常識とは違うようなことを言うんですね。それをすかさずツッコミ担当の人がツッコんで、会場が笑いに包まれる訳ですよ。

この場合、ボケ担当の人が常識外れの事を言ったことに対して笑いが起きているのですね。つまり我々はボケ担当の人を「何言ってんだよこいつ」と見下す行為を「笑い」という観念を通じて外に発信しているのではないか?

勿論これには矛盾点が生じます。言うまでもなく、我々は漫才師の方々や、友人たちを見下したりなんてしませんからね。ただ、人の笑いというものは、根源的には嘲笑から生じているのかもしれません。そう思うと悲しくなってきます。

 

ここで、どうやら僕の考えを否定する通説が存在するようで。

人はなんと、自分の間違いに対して笑うそうです。

つまり、またまた漫才を例にとると、我々は、常識外れのことを言う漫才師のボケに対して、自分の思い込みが外れたことに対して笑うのです。なるほど、この説ならすべての「笑い」に対して当てはまりそうです。他人を見下す必要もなくなりますしね。めでたし。

 

ただ、もしかしたら僕の説のほうが実は正しかったりして・・・?「笑い」を研究する学者たちは、我々のことを馬鹿にしてほくそ笑んでいるのかもしれません。

数学に代わる教科を作ろう

何故、この社会には「義務教育」というシステムがあるのか?それは明らかに、人々の思考力や観察眼、記憶力などを育てるためだ。

そしてその中でも異彩を放つ教科が一つ。「数学」である。国語や英語、理科などはまだ実用性があると言えないでもないが、数学とか日常生活にはっきりいって不要である。2次関数とか三角関数どこに出てくるのさ。

ところが「数学」は、学校教育における最重要科目として長い間君臨してきた。なぜなら、数学というものは人の論理展開力、洞察力を鍛えるのに最も適しているからだ。さらに言うと、数学の体系には(本当に最先端は覗いて)矛盾がない。完璧である。この裏付けによって、各先生方は生徒に対して自信たっぷりに授業を展開することが出来るのだ。

 

ところで私は数学をしたくない。数学の問題を見るだけでじんましんが出てくる。あぁいやだいやだ。

そんなわけで、「論理展開力が育てられて」「矛盾がなく」「しかもそんなに難しくない」とある体系が存在するならば、もしかしたら学校教育において「数学」という教科の代わりとして機能するのではないだろうか。少なくとも、選択科目として選択できる程度には。

 

候補1:アルゴリズム・プログラミング

理由:最有力。アルゴリズムなんて論理そのものだし、人の作りしものだから矛盾もないし、まぁ頑張れば高校生にもできるだろうし。完璧っす。

欠点:パソコンが必須なため、維持費が大変なことに。

 

候補2:経済、金融

理由:ホラ、なんか信用創造とかあったよね。難しそうじゃん。うん。

欠点:奥が狭そう

 

候補3:作曲

理由:モーツァルトって幼少期に数学が好きだったとかなんとか。今でもモーツァルトの曲を聴くと数学の成績が上がるみたいな話ありますよね。つまり数学と作曲は類似している訳なんですよ。展開とか、メロディとかね。

欠点:どうやって採点しろと。

 

数学は偉大でしたね。あきらめて勉強します。

 

2016/9/4