こんちゅう

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日本のミイラ仏をたずねて (一日一冊、2/12)

今日は,私の人生にとって記念すべき日となった.
難波に行き,私の大切な,20年間連れ添ったたいせつなものを「捨てて」きたのだ.

捨てる前は,ああ本当にこれで捨てるのかという実感はなかったが,緊張はしていた.もし手順を間違えたらどうしよう,恥をかくに違いないなどという思考が私の脳をよぎる.
しかし,一緒に着いてきてくれた友人のおかげでなんとか精神を保ち,無事にこなすことができた.今日この日を迎えるにあたって,これまで私のことを暖かく見守ってくれた全ての関係者の方々に感謝の意を示したい.

 


言うまでもなくスタバの話である.カフェモカ?とかいうのを頼みました.生クリームとほんのり香るチョコレートが口の中で交わり,とても美味しかったです.カップも新鮮で驚いた.

 

さて,本日読んだのは「日本のミイラ仏をたずねて」(土方正志,1996,晶文社)だ.ここ最近まともな本が続いていたので,いっちょここらで「なんだこれ?訳わかんねえwこんな本読んで何の得になるんww」みたいな本を引き当てたいと思い,タイトルからしてネタ臭のする本を選んだ.
選んだつもりであったが,実はびっくり,この本,めちゃくちゃ面白かった.少なくとも今回の企画で読んだ本のなかでは一番だ.

ミイラ仏とは,寺のもとで修行を積んだ僧侶(たいていの場合,彼らは京都の寺で修行を積んで全国に散らばったような「由緒正しき」お坊さんではなく,もとは普通に暮らしていて,その生活を捨ててお寺に弟子入りした人たちである通称”行人”であったらしい)が,自らの死の前に弟子たちに頼んで,死体を保存させ,修行者が瞑想を続けて絶命しそのままミイラとなる「即身仏」になることである.
これだけ聞くと(少なくとも私は)ぎょっとしてしまったのだが,何十年か前は,それらミイラ仏がTVや雑誌で特集されたり,修学旅行で見学するなど,世間の人たちにある程度知られた存在であったようだ.

現在まで保管されているミイラ仏は(この本が書かれた当時では)わずか18体しか確認されていない.ところが,それら一体一体に,修行者がミイラとなった経緯や伝説,エピソードがある.非常に興味深いことに,それらのエピソードは「交差する」――つまり,ミイラ仏が誕生した時代も,土地も,全然異なるのに,それらの誕生には他のミイラ仏の存在や,歴史,風土などが強く影響する.これらミイラが織りなす多層的な世界観に,きっと読者は歴史の神秘的な魅力を感じることであろう.

また,ミイラ仏といういかにも暗くなりそうな対象とは裏腹に,この著者の語り口がいかにも軽快で面白い.私が気に入っている一節を引用しよう.

真言宗の開祖,弘法大師空海が,高野山の奥で即身仏となっているという伝説がある.この伝説にあこがれて,のちの世の後継者たちが続々と土中入定を遂げた.なにしろ空海には「即身成仏義」なる著書まであるのだ.
だが,「即身成仏義」と即身仏はじつのところまったく関係がない.空海の説いた「即身成仏」とは,修行を積めば生身のままジョブウツできる,つまり生身のままで悟りを得ることが出来るというものだ.
なにもミイラになれなんていってはいない.

この本,実は昨年8月に復刻されたらしい.興味のある人は,ぜひ読んでみてはいかが.

 

新編 日本のミイラ仏をたずねて

新編 日本のミイラ仏をたずねて