こんちゅう

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宗教と平和③

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争いというものはすべて、個人的ないし民族的アイデンティティーが侵されたときに発生する。それならば、どうして宗教というものを特別扱いし、宗教戦争という枠組みを作り上げることに意味があるのだろうか?

もととなるものが宗教なのか、国なのか、民族なのか、違いは本当にそれだけである。さらに言えば、それらが複数個つながっていることも多い。

裏を返せば、たとえこの世から宗教がなくなったって、この世から争いは消えない。なぜなら、宗教という拠り所が無くとも、人々はほかのものに頼りすがるだけだからだ。「宗教」という人間の「死への恐怖」を利用したものが、たまたま人間の歴史のなかで繁栄しただけなのだ。

 

つまり、冒頭で述べた「宗教が無くなれば争いは減るのかどうか」とか、「宗教間の相互理解で云々」とかは、こうしてみると次元の低い話になってくる。宗教とはアイデンティティーの単なる構成要素に過ぎない。それが無くなったって人々のアイデンティティーが消えるわけじゃない。

宗教のみならず民族や国家といった要素まで消して、地球市民として生きていこうという人がいるかもしれない。それが現実になったとして、一体世界はどうなるかは誰にもわからない。わからないけれど私には、人類が緩やかな崩壊を迎えていくような気がして仕方がない。そのあたりは機会があれば別の記事で。

 

さてまとめに入ろう。現在、世界では宗教による対立が続いている。それらを解決する「根本となる」考え方とは何だろうか。個人的、民族的アイデンティティーの概念に照らし合わせて、私は「生活環境をよくすること」、この一言だけで言い表せると思う。

一記事目、二記事目で述べた通り、いわゆる先進国と発展途上国では生活環境に大きな差があって、それがもとでアイデンティティーを構成する要素も大きく違ってくる。厳しい環境だとアイデンティティーには宗教や国家、民族といった「争いを生みやすい」構成要素を取り入れなければならないが、環境がより良くなるにしたがって、そういった要素というのは自然と薄まっていき、代わりにもっと自由で素敵なものが含まれてくる。それこそが理想的な社会の状態であり、我々現代人が目指すべき目標なのではないだろうか。

 

この考えには「理想論だ」と思う人も多いだろう。しかし私は、「現実に即した対応策」というのは「理想論」に従って初めて本当の効果を発揮するものだと信じている。

「もちろん、私は平和論者で、世界平和に越したことがない」と書いてある文章が私は大嫌いだ。彼らは結局、囚人のジレンマに縛られているに過ぎない。もっと自由で俯瞰的な発想が、現代日本には必要なのではないだろうか。

 

2016/6/19