こんちゅう

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宗教と平和②

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逆に後進国、治安の良くない国だったらどうだろうか。不安定な生活に、危険な社会情勢・・・そういった国々で人は、平たく言うと人生の意義を感じにくい(ここでいう人生の意義とは先進国視点のものだが)。そうすると人々は、自分の存在意義を、何か別の、大きなものに置こうとする。すなわち、宗教だ。宗教による自己のアイデンティティーの規定の比率が高いのだ。

そういった人々が集まり集団となり、国家やグループが出来てくる。人々の生まれた環境により宗教を信じるのか、それともそういった宗教を信じる人たちが集まってコミュニティを形成したかは「鶏が先か卵が先か」で、本質的ではない。

 

ではここで、現代における宗教紛争がどうして起こるのか考えたい。宗教の違いにより起こるのだろうか。「偉大なる神○×の教えにあいつらは背いていやがる。これは神に対する冒涜だ。」・・・そういった純粋な考えからきているのかと言われれば、一部を除いてそれは違うと思う。では宗教というものは国家や組織における「大義名分」のようなものなのだろうか・・・やはりそれもズレている。そういった騙しだましの戦いなど、トップはともかく、構成員たちを支え続けていくことは不可能だ。

どうして宗教間での争いが起こるのか。私が考えるに、宗教の違いにより対立ではなく、宗教に大きく影響された個人のアイデンティティ、さらにその集団の民族的なアイデンティティーの存在が危ぶまれたときに発生するものだと思う。自分の存在意義が無くなろうとすると必死にそれを取り返そうとする、これはすべての人において共通のことだ。もしある集団が、何らかの事情により自分たちの存在が危ぶまれたらどうなるだろうか?彼らは奮起し、その際自分たちの原点となっているもの、つまりそれがもとに集団としてのアイデンティティーが確立されているようなもの、を看板に掲げて行動するのだ。

 

このことは実は宗教だけでなく、民族間、国家間の問題、紛争にもすべて当てはまる。違いを生むのは、何が彼らの拠り所となっているか、その一点のみである。

 

2016/6/12

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