こんちゅう

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謝罪哲学

あらゆる人間の感情表現のなかで、謝罪ほど興味深く、複雑なものはない。

というのも、謝罪には2つの意味が存在しているからだ。ひとつは、本心から許しを請う行為であり、もうひとつは、その場を乗り切るための戦術的行為だ。

前者は教科書的な、そのままの意味として置いておいて、では後者の意味は一体何を表しているのだろうか。

 

戦略的に謝罪をする。謝罪する側の立場からすれば、それは劣勢となっている現在の自らの立場を最終的に戻そうとする行為であり、謝罪される側の立場からすれば、それは実際なんの意味もないことに気づく。そりゃそうだ、一応謝罪は受けたものの、相手が本当に反省しているのかなんてこちらからは判別できない。

逆に、謝罪する立場からすれば、自分が反省していようがしていまいがある程度場が収まる、とっておきの隠し武器のようなものだ。

 

それでもこの世の中は謝罪であふれている。

謝罪する事の本態は、詫びた方、または詫びられた方、または双方の再出発(reset)の為の手続きや、セレモニー(儀式)である。

wikipediaより引用。謝罪とは手続きであり、儀式である。つまり、謝罪するという行為自体が、争いや討論の文脈に既に含められているのだ。反省だとか、許しを請うとかの意味は持ち合わせていない。

プライドの刃は捨てなくてもいい、一度下に置くだけです

漫画「暗殺教室」で、殺せんせーがカルマ君に放った言葉。必ずしも謝罪することで自尊心が傷つけられるわけではなく、本当に自分のやったことが正しいと思っているならば、それは保たれる、という意味。こちらも、「謝罪」という感情表現自体の形骸化を示している。

 

 

ただ、ここで確認しておきたいことは、謝罪というものは本質的には、自らのプライドは傷付けられ、相手に優越感を覚えさせる行為だということだ。

人間とは優越感を持つことで悦びを覚える生き物だ。それは本能であり、理性である程度コントロールできるとはいえ、決して逃れられない感情である。

逆に人間とは、自尊心、つまりアイデンティティーで成り立っている生き物だ。この前の「宗教と平和」の記事でも述べたが、アイデンティティーが無くなるということはつまり、自分の生きている意味がなくなるということであり、人はそれを避けるようにプログラムされている。

 

いくら社会が多層化、複雑化し、謝罪という行為がルーティンとなったとしても、人間の本能からは逃れられることができない。人は劣勢になったとき、自らの「隠し武器」を用いて戦おうとするが、それと同時に、自らの人間らしい心は失われていく

子供は大人を見て育つ。TVなどで謝罪会見をする老人たちを見て、一体彼らは何を感じ取るのだろうか。人間の感情表現としての謝罪を、する側であれされる側であれ、我々は失ってはならない。

 

2016/6/26