こんちゅう

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サイト開設にあたって ―― インターネットと、思考の相互干渉

最近のインターネットの普及により浮かび上がった問題、それは情報の氾濫である。

 

インターネット・ウェブサイトを通じて、私たちはたくさんの情報を行き来させる。それは生活のなかのちょっとした知恵袋であったり、諸製品のレビューであったり、さらに大企業の知られざる裏側――私たちが普通に生活していては得られないようなもの、いわゆる「タブー」的な情報でさえも手に入れられる。これらの情報は我々の生活に多大な影響を与えている。

ただ、それと同時に、誤った情報や、悪意のある誹謗、さらに一見真実のように思えてしまうような、意図的にコントロールされたものなど、そういったものも流布してしまう。多少の刺激のあるニュースは、その真偽にかかわらず瞬く間に広められ、たとえ後で間違いを訂正したとしてももう手遅れなのだ。

そんな社会において大切なのは、情報を正確に取捨選択できる能力――いわゆるネットリテラシーだと言われている。インターネットの爆発的な普及に、学校での情報教育が追い付いていないため、未だに浸透していない。この能力を皆が持っていれば、少なくともデマに踊らされたり、不用意に個人情報をネット上に晒すようなことはなくなるだろう。

 

ではここで、インターネットの無かった時代のことを考えてみよう。情報の氾濫というネット独自の問題点がなかった当時は、正しく情報を判断し、正確にものごとを捉えられていたのだろうか。

そんなことは決してない。情報の絶対量そのものは今よりも少ないかもしれないが、それでもその一昔前の人々もまた、メディアのいうことを鵜呑みにして、度々騒ぎとなった。

インターネットがあろうがなかろうが、ネットリテラシーがあろうがなかろうが、我々は、情報から物事を正しく判断する能力が弱い。それはインターネットの出現に伴う問題なのでなく、そもそも初めから皆が持っている問題なのだ。

 

情報の真偽を判断する能力は持っていて然るべきものなのであって、我々が今議論しなければならないのはこれだ。「情報から正確にものごとを捉えるにはどうすればいいか?」

 

 

さて私が考えるに、個々の深い考察による相互ネットワーク形成、これしかないのではないだろうか。

一人ひとりの、あるいは少数の集団による考察には、どうしても多少の間違いが生じてしまう。今までのメディア・モデルだと、ある一つの問題に対して、何人かの専門家達が議論を交わし、それを何人かの編集者がまとめあげ、それを何百万人という人々が見物する。要するにたった数人で出来上がった「アイディア」が、何百万人の中の「常識」になってしまうのだ。これでは正確な判断はできまいし、さらに意見誘導も容易く実行できうる。

私の考えの中では、国民全員が「専門家達」であり、国民全員が「編集者」であり、さらに国民全員が「人々」なのだ。

 

つまりこういうことだ。 ある問題が提唱されたときに、各人はそれぞれ正確な情報を仕入れ、時間をかけてその問題に対し考察をする。そうすることで、各人の中にはある程度まとまった「意思」が芽生えるだろう(その際、決して専門的な知識というのは必要ない。必要ならば、その専門的な知識を持っている人の考察から情報を取得すればよいのだ)。 その状態で、他の人と「交流」する。ここでいう「交流」とは様々だ。実世界での日常会話のふとした話題に上ったり、ネット上にその「意思」を成文化して流したり(その形式も、コメントやブログなど、多岐に渡る)、極端に言うと、ただ会うだけでも十分「交流」に含まれる。そうすることで、自らの「意思」が軌道修正される。相手の「意思」のほうがより良いと感じればそちらに傾くし、逆に自分の「意思」のほうが優れていると感じたら、自分のものがより強固になる。 そうしてお互いに軌道修正していくうちに、いつしか正確に物事を捉えることが出来るようになるのだ。

 

勿論、理想論と言われればそうであるとしか言いようがない。国民全員、お互いにそういうことを実際するのかというとそうではないし、さらにここでは「正確」というものの定義が、「皆が同意する」というものとなってしまい、全体として間違った方向に向かってしまう可能性も捨てきれない。

 

だが私のこの理論には、もうちょっと現実的な場合に当てはめて考えることもできる。これらの交流が、主にインターネット上で行われたとする。その際にポイントが3つある。

まず当然のことではあるが、世界中の様々な人と、いつでも無料で意見交換が出来る。これは、考察や批評を生業としていないものでも、気軽に議論に参加出来ることをも意味する。

次に、インターネットに書き込むということは、日常会話とは根本的に性質が異なる(twitterなどの例外もあるが)。自分の意見が「間違って」いたならば遠慮なく叩かれるし、証拠ははっきりとログとして残るため、安易に発言することが出来ない。さらに暴言や罵倒を禁止した環境を作ると、ある程度の質と正確性を保った「交流」が可能であろう。

また、インターネットの匿名性は、現時点での常識から外れた考察ですら容易に提唱することが出来る。一般的慣習や風俗から分かたれた、斬新で革新的な発想が生まれるかもしれない。

 

こうした条件がそろうと、日本国民全員とまではいかなくても、今よりもずっと多い人数が議論に参加することになる。その結果、より「正しい」方向性を持った判断というよりはむしろ、より「洗練された」判断が生まれる。

ある問題に対する絶対的な解決法というものは現実的には存在しないし、価値観は人によって様々であろう。

しかし、今までのメディア・モデルとは比較にならない程の多大な量の考察により、少なくとも現時点よりは、より皆が納得できるような、相対的に「正しい」捉え方ができることになる。

つまり、インターネットの出現というのは、人類が今まで成し得ることのできなかった究極の問題を解決するための糸口でもあるのだ。

 

 

そういったことを踏まえて、私はこのサイトで、いろいろな物事に対して独自の考察を記していきたいと考えている。間違いも、勘違いも多く含まれることだろう。しかし、「深く考察」し、「意思」を持ち、それをインターネット上に流し他人と「交流」させることで、先ほどのロジックにより、全体として正しい方向に進んでいくと信じている。

そしてもちろんこの文章自体も、そのロジックに組み込まれているのだ。

 

2016/4/17