意図的に作られた「対立」と、特定集団への帰属意識②
前回:
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特定の集団に帰属しているものは、必ず一種の帰属意識が生まれる。会社や学校、自分の応援するスポーツ・チーム、自分の住んでいる町や国。性別だって一種のそれかもしれない。
人間は、その帰属感があるからこそ安心して生活できる。自分と同じような人たちがたくさんいて、さらにこの集団に守られているんだという感覚が得られるからだ。
しかしながら、集団への帰属により生まれるものは充足感だけではない。そこにはどうしても、潜在的なものではあるけれど、集団同士の対立が生まれる。対立が生まれることで、集団的な一体感はより増幅される。あとはその繰り返しだ。
ではこの対立というのは完全に悪い、現代人として否定されるべきものなのだろうか。
実はそうではない。なぜなら、この対立というのは無意識的でかつ、本能的でもあるからだ。どうして人は喜びや楽しみを感じるかという内容については、それだけで記事が一本書けそうなのでここでは割愛するが、相手に「勝利する」という渇望は人間の生まれ持ったものなのだ。
それゆえに、集団同士の対立というのは必然なものであり、決して人間のエゴや邪心から生まれるものではないのだ。恥じらうべきものでもない。
むしろ、その本能を他のところ――暴力的な征服欲に変貌する前に、スポーツ観戦で果たしてしまったほうが都合がいい。
最近バレーボールのオリンピック予選がTV中継されていた。日本対タイ(ゴロがいい)で、日本はこの試合に勝たないとリオ五輪に出場することはできない。
私は普段バレーボールに何の興味のないのだけれど、なかなか白熱した試合だったのでつい見入ってしまった。勿論応援するのは日本側、点数を入れるたびに歓声を上げ、相手のスパイクが決まるたびに悔しい思いをした。ホーム・アドバンテージもあり会場の応援はそれはもうすごいものだった。
最終結果として日本が大逆転勝利を果たし、試合は終わった。私は素直に嬉しかったし、観客、何より選手は大喜びだった。これだけ盛り上がった試合というのはエンターテインメントとして大成功の部類だろうし、経済的にもTVのスポンサード料などで大量のお金が回り、大袈裟に言えば、景気の向上に貢献したのだ。
でも――これでタイの五輪出場は絶望的になった。タイ側の選手は悲しかっただろう。4年に一度しか開催されない、スポーツの祭典。スポーツをやる者として夢見た舞台に立つ名誉ある絶好の機会を、今まさに逃した瞬間でもあるのだ。
言いたいことはわかる。これは「勝負の世界」であり、勝ち上がれるチームは必ず限られるものだ。それを理解して、覚悟して、彼女らはプレイしているだろう。もっと言うと、もしタイ側が勝っていたならば、向こうはこちらと同じように大喜びしただろう。
それを、なんの関係もない私のような捻くれた一般人からとやかく言われるのは癪にさわるだろう。やかましい、それがスポーツの世界だ、勝利があるから楽しく、敗北があるから美しいんだ、と。
上にも書いたが、スポーツでの対立というのは悪いものではない。推奨されるべきものだ。私自身も楽しむ。
ただ――対立というものは敗北を生み、悲しみを背負うものがいる、という大前提を忘れている人が多すぎるのではないだろうか。
スポーツでの敗北は同時に勝利の可能性をも示唆し、悲しみというのは最小限に設定されているが、それでも敗北は敗北だ。敗北とは相手を打ち負かす行為である。自分が勝利の喜びを得る代わりに、自分もまた敗北の悲しみを味わっているからプラマイゼロ、というのは自己完結しているにすぎない。相手がいることを忘れている。
何度も、何度も繰り返し書くが、これがスポーツならいいんだ。負けたって、また勝てばいい。でも、そうじゃないことだってある。いったん負けたら、もう二度と立ち上がれないことだってある。
私たちは相手のことを考える共感能力をまだ、大切に持っていますか?集団での対立という全体主義に流されて、自分のことばかりを考えていませんか?そしてその対立は、どこから生まれてくるものなのだろう。もしかしたら、意図的に作られたものなのかもしれない。だとしたら、ものすごくばかばかしいことではないか。
2016/5/22