意図的に作られた「対立」と、特定集団への帰属意識①
野球、それは日本において最も深く浸透しているスポーツといっても過言ではない。
最近ではゴールデンタイムに試合を放送することはほとんど無くなったが、それでも別の時間帯ではまだよく見かける。TVのニュース番組では、長かったり短かったりの違いはあるものの、必ず野球の試合結果のコーナーがある。
そして、皆大抵自分の応援する球団がある。
日本人が応援している球団の割合の円グラフがここから確認できる。応援しているチームがある、と答えたのは60%。恐らくこの数値は減少傾向にあるのだろうが、それでもすごい数だ。
ニュースで○○が勝って××が負けた、順位が上がった下がった、と聞くたびに私たちは、今年はいけるかもしれない、あぁやっぱりダメだ・・・などと、一喜一憂する。
ここで私が問いかけたいのはこれだ。本当にその球団が好きですか?
こう問いかけることもできる。あなたは何故その球団を好きになったのですか?
親がそうだから、とか、地元のニュースを見ればその球団を応援しているから、とかそういった理由が大半だろう。
実は上のリンク先の統計には、
「ファンになった理由については、「地元の球団だから」(37.9%)が最も多い。」
というデータがある。
これは当たり前のことである。縁もゆかりもないチームを好きにはならない。
こうしてみると、少なくとも最初は、周りの人や環境に影響されてチームのファンになった、というケースが圧倒的であろう。そこに自らの意思は存在しないのだ。
勿論、チームのファンになった後に、その球団の魅力を感じることもあるかもしれない。でもその人は結局、例えば違う地域に住んでいたら全く違うチームを応援しているのだろう。
つまり、私たちの球団に対する応援というものは、他のものにより作られたものである(ちなみに、それは誰による操作なのかというと勿論、野球が盛り上がることにより儲けたい野球界の人間だ)。私たちは、応援させられている球団と、応援させられたかもしれない球団との試合に熱中し、その結果に一喜一憂しているのだ。
しかしここで留意しておくべき点がある。これを現実に他の人に言ったら必ず嫌な顔をされる。どうしてそんなしけた事を言うんだ。気分が悪くなっちゃったじゃないか、と。
こんな風に言われるのは仕方がない。彼らはその作られた試合というものを目いっぱいに楽しんでいるのだ。心の奥底では理解しているのかもしれないけれど、それを分からない風に、自分はその球団を応援する運命に生まれ落ちたんだと信じて。
どうして野球はそこまで人々を熱中させるのか。野球というスポーツ自体に芸術的な感動があるとは思えない(スーパープレイの映像とかを見ると純粋にすごいとはおもうが、そんなことが起こるのは稀である)。やはり人々は、野球を「バトル」として楽しんでいるのは間違いがない。ただ、この「バトル」とは決して、1vs1の死を賭けた決闘のような、グロテスクで相手を蹴落とすようなものではない。
ひとつの球団を皆で熱心に応援することで、彼らには一種の帰属意識と、一体感が生まれる。自分たちはこの球団を皆で一緒に作り上げているんだと。それを理解しているから、選手たちはファンに感謝の意を伝える。
球団が勝つと皆で喜ぶ。負けると皆で怒る。彼らは野球というスポーツを楽しんでいるのではなく、この感触を楽しんでいるのだ。
そしてこの感触というのは、野球のみならず実は帰属意識を持たれるものすべてに当てはまる。そのうちの一つに「国家」があるのだが、その話はまた来週。
2016/5/8
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