こんちゅう

エッセイ・小説・ブログ・楽譜置き場。 不定期更新。

この社会は良心で成り立っている

人類は多種多様なコミュニティを形成してきた。農業のために小さな部落を作るところから始まり、王政を経て、今では民主主義――これまでの社会のシステムの中で一番洗練され、認められたものが多勢を占めている。

これらのコミュニティの「進化」の過程で本質的には何が変化したのだろうか?人々の平等性、より効率的なサイクル。いろいろ思いつくだろうが、結局のところ「安定」を求める方向性に進んでいる。独裁制を敷けばそれだけ人民からの反発も喰らうし、他国を出し抜こうとすればそれと同じだけ他国から侵略される。これでは「不安定」だ。

長い長い歴史の流れのなかで人類は、自国の「安泰」には平等と平和が一番だと悟った。(もちろん、何を第一にとるのかは時代によって異なってくるのだが)皆で決めて、皆で団結する。それこそ民主主義であり、私たちの現時点での理想形だ。

 

さてここで、「安定」を創る大きな要素が他にもある。それは「自動化」されていることだ。人は人では裁ききれないから法律を作った。法律とはオートマティックな手順であり、それに則ることである程度の平等を確保でき、安定に繋がる。現代社会には欠かせない代物だ。

 

しかしながら、私たちは普段の生活をしているうちに、無意識に「自動化」されていないものまであたかも「自動化」されているように扱っている。その最たる例は何か。すなわち、世論である。

何か、私たち一般市民が納得できないような事柄が発生したとしよう。多くの場合、マスメディアがそれを取り上げ、それについての特集を組む。それを我々一般市民が見ることで、よりその不満――集合的に言うと、いわゆる世論が高まる。

世論が決定されると、次に起こることは何か。その問題の当事者は当然何らかの対応をせざるを得ない。その対処が満足いくものであれば自然と世論は収束するし、そうでなければますます批判は高まる。

私たちはこの一連の流れを当たり前のものとしてとらえている。これが民主主義だと思っている。でも実際には違う。なぜなら、自動化されていないからだ。

 

ごく最近起こった例を挙げてみよう。舛添東京知事は、市民から集めた大切な税金を、全く不必要なことに使っていたことが判明した。それも次々と。今まで通りなら、これだけ問題が広がった時点で辞任である。でも彼は一向にその素振りを見せない。辞任せずに、このまま問題が収束するのを待つつもりなのだろうか。

このように、民主主義の一端を担う存在である「世論」は簡単に崩れ去る。というより、もともと世論なんて存在しなかったのだ。法律に「世論」というオートマチック・システムが書かれているわけではない。

 

ではなぜ世論というものがあたかも存在しているような錯覚に陥っていたのだろう。それは、今まで政治家やマス・メディアが、この「世論」という見せかけのシステムを暗黙の了解として認識していたからだ。見せかけの市民の声に、見せかけの民主主義。なぜこんなことをする必要があったのかというと、当然ながら「不完全」な民主主義を、「完全」な民主主義に仕立てあげるためだ。人々に安心して生活してもらうためだ。

 

でも、勿論「自動化」されていない不完全なシステムは本当の「安定」は生み出せない。悪い大人は、いくらでも操作のしようのある「世論」というシステムに身を隠しながら生きている。

 

2016/5/29

意図的に作られた「対立」と、特定集団への帰属意識②

前回:

http://www25107ue.sakura.ne.jp:25000/zaru/wotto/archives/66

 

特定の集団に帰属しているものは、必ず一種の帰属意識が生まれる。会社や学校、自分の応援するスポーツ・チーム、自分の住んでいる町や国。性別だって一種のそれかもしれない。

人間は、その帰属感があるからこそ安心して生活できる。自分と同じような人たちがたくさんいて、さらにこの集団に守られているんだという感覚が得られるからだ。

 

しかしながら、集団への帰属により生まれるものは充足感だけではない。そこにはどうしても、潜在的なものではあるけれど、集団同士の対立が生まれる。対立が生まれることで、集団的な一体感はより増幅される。あとはその繰り返しだ。

 

ではこの対立というのは完全に悪い、現代人として否定されるべきものなのだろうか。

実はそうではない。なぜなら、この対立というのは無意識的でかつ、本能的でもあるからだ。どうして人は喜びや楽しみを感じるかという内容については、それだけで記事が一本書けそうなのでここでは割愛するが、相手に「勝利する」という渇望は人間の生まれ持ったものなのだ

それゆえに、集団同士の対立というのは必然なものであり、決して人間のエゴや邪心から生まれるものではないのだ。恥じらうべきものでもない。

むしろ、その本能を他のところ――暴力的な征服欲に変貌する前に、スポーツ観戦で果たしてしまったほうが都合がいい。

 

最近バレーボールのオリンピック予選がTV中継されていた。日本対タイ(ゴロがいい)で、日本はこの試合に勝たないとリオ五輪に出場することはできない。

私は普段バレーボールに何の興味のないのだけれど、なかなか白熱した試合だったのでつい見入ってしまった。勿論応援するのは日本側、点数を入れるたびに歓声を上げ、相手のスパイクが決まるたびに悔しい思いをした。ホーム・アドバンテージもあり会場の応援はそれはもうすごいものだった。

最終結果として日本が大逆転勝利を果たし、試合は終わった。私は素直に嬉しかったし、観客、何より選手は大喜びだった。これだけ盛り上がった試合というのはエンターテインメントとして大成功の部類だろうし、経済的にもTVのスポンサード料などで大量のお金が回り、大袈裟に言えば、景気の向上に貢献したのだ。

 

でも――これでタイの五輪出場は絶望的になった。タイ側の選手は悲しかっただろう。4年に一度しか開催されない、スポーツの祭典。スポーツをやる者として夢見た舞台に立つ名誉ある絶好の機会を、今まさに逃した瞬間でもあるのだ。

言いたいことはわかる。これは「勝負の世界」であり、勝ち上がれるチームは必ず限られるものだ。それを理解して、覚悟して、彼女らはプレイしているだろう。もっと言うと、もしタイ側が勝っていたならば、向こうはこちらと同じように大喜びしただろう。

それを、なんの関係もない私のような捻くれた一般人からとやかく言われるのは癪にさわるだろう。やかましい、それがスポーツの世界だ、勝利があるから楽しく、敗北があるから美しいんだ、と。

 

上にも書いたが、スポーツでの対立というのは悪いものではない。推奨されるべきものだ。私自身も楽しむ。

ただ――対立というものは敗北を生み、悲しみを背負うものがいる、という大前提を忘れている人が多すぎるのではないだろうか。

スポーツでの敗北は同時に勝利の可能性をも示唆し、悲しみというのは最小限に設定されているが、それでも敗北は敗北だ。敗北とは相手を打ち負かす行為である。自分が勝利の喜びを得る代わりに、自分もまた敗北の悲しみを味わっているからプラマイゼロ、というのは自己完結しているにすぎない。相手がいることを忘れている。

 

何度も、何度も繰り返し書くが、これがスポーツならいいんだ。負けたって、また勝てばいい。でも、そうじゃないことだってある。いったん負けたら、もう二度と立ち上がれないことだってある。

私たちは相手のことを考える共感能力をまだ、大切に持っていますか?集団での対立という全体主義に流されて、自分のことばかりを考えていませんか?そしてその対立は、どこから生まれてくるものなのだろう。もしかしたら、意図的に作られたものなのかもしれない。だとしたら、ものすごくばかばかしいことではないか。

 

2016/5/22

 

意図的に作られた「対立」と、特定集団への帰属意識①

野球、それは日本において最も深く浸透しているスポーツといっても過言ではない。

最近ではゴールデンタイムに試合を放送することはほとんど無くなったが、それでも別の時間帯ではまだよく見かける。TVのニュース番組では、長かったり短かったりの違いはあるものの、必ず野球の試合結果のコーナーがある。

 

そして、皆大抵自分の応援する球団がある。

日本人が応援している球団の割合の円グラフがここから確認できる。応援しているチームがある、と答えたのは60%。恐らくこの数値は減少傾向にあるのだろうが、それでもすごい数だ。

ニュースで○○が勝って××が負けた、順位が上がった下がった、と聞くたびに私たちは、今年はいけるかもしれない、あぁやっぱりダメだ・・・などと、一喜一憂する。

 

ここで私が問いかけたいのはこれだ。本当にその球団が好きですか?

こう問いかけることもできる。あなたは何故その球団を好きになったのですか?

 

親がそうだから、とか、地元のニュースを見ればその球団を応援しているから、とかそういった理由が大半だろう。

実は上のリンク先の統計には、

「ファンになった理由については、「地元の球団だから」(37.9%)が最も多い。」

というデータがある。

これは当たり前のことである。縁もゆかりもないチームを好きにはならない。

 

こうしてみると、少なくとも最初は、周りの人や環境に影響されてチームのファンになった、というケースが圧倒的であろう。そこに自らの意思は存在しないのだ。

勿論、チームのファンになった後に、その球団の魅力を感じることもあるかもしれない。でもその人は結局、例えば違う地域に住んでいたら全く違うチームを応援しているのだろう。

 

つまり、私たちの球団に対する応援というものは、他のものにより作られたものである(ちなみに、それは誰による操作なのかというと勿論、野球が盛り上がることにより儲けたい野球界の人間だ)。私たちは、応援させられている球団と、応援させられたかもしれない球団との試合に熱中し、その結果に一喜一憂しているのだ。

 

しかしここで留意しておくべき点がある。これを現実に他の人に言ったら必ず嫌な顔をされる。どうしてそんなしけた事を言うんだ。気分が悪くなっちゃったじゃないか、と。

こんな風に言われるのは仕方がない。彼らはその作られた試合というものを目いっぱいに楽しんでいるのだ。心の奥底では理解しているのかもしれないけれど、それを分からない風に、自分はその球団を応援する運命に生まれ落ちたんだと信じて。

 

どうして野球はそこまで人々を熱中させるのか。野球というスポーツ自体に芸術的な感動があるとは思えない(スーパープレイの映像とかを見ると純粋にすごいとはおもうが、そんなことが起こるのは稀である)。やはり人々は、野球を「バトル」として楽しんでいるのは間違いがない。ただ、この「バトル」とは決して、1vs1の死を賭けた決闘のような、グロテスクで相手を蹴落とすようなものではない。

ひとつの球団を皆で熱心に応援することで、彼らには一種の帰属意識と、一体感が生まれる。自分たちはこの球団を皆で一緒に作り上げているんだと。それを理解しているから、選手たちはファンに感謝の意を伝える。

球団が勝つと皆で喜ぶ。負けると皆で怒る。彼らは野球というスポーツを楽しんでいるのではなく、この感触を楽しんでいるのだ。

 

そしてこの感触というのは、野球のみならず実は帰属意識を持たれるものすべてに当てはまる。そのうちの一つに「国家」があるのだが、その話はまた来週。

 

2016/5/8

 

次回:

http://www25107ue.sakura.ne.jp:25000/zaru/wotto/archives/84

現代の社会運動

社会運動、と聞いて何を連想するだろうか。署名、ボイコットなど色々あるが、ほとんどの人は皆、「デモ」を連想するのではないだろうか。

特定の日時、場所に集まり更新するだけで、自分の意思表示になる。人数が集まれば集まるほど話題となり、メディアに取り上げられればその影響力は倍増する。

「デモ」は社会運動の方法として長らく使われ、現在の民主主義に欠かせない存在となっている。

 

しかし、この現代において「デモ」をする意義はあるだろうか?「デモ」は社会運動において必須なものなのだろうか?

インターネットが布教するこの時代において、市街地に出て「デモ」という形で自らの意思表示をするのは、かなり危険も伴う。その思想が偏ったものであったり、それを良く思わない人たちがいるのならなおさらだ。youtubeに晒され、名前や住所が特定されると、その人の個人情報が半永久的にインターネット上に出回ることになる。

ある程度の社会的地位と安定した生活を得ている中、高齢者はまだしも、特に学生にとってはそれは就活という面で非常に不利になる。新入社員のSNSを調べる会社もあるくらいなので、もしインターネットにその人の個人情報が流れていて、それに対し批判的な意見も多いとき、果たしてその人を採用するだろうか?NOとは言わないでも、マイナス要素になり得るだろう。

そうした理由で、学生のうちからデモに参加しようという人は少ない。「学生がデモをしている」ことをウリにした団体もあるが、そういうところは背後に強力なバックがいるからこそ成り立つのであり、一般的な学生にとっては無理な話である。

 

では現代における社会運動とは何だろうか?答えは言うまでもなく、インターネットである。インターネット上に自分の政治的意見を流すことのできる環境づくりの有意性は早く理解されるべきである。匿名でも構わない。中には匿名をいいことに過激な発言をする者もいるが、環境が普及すればするほど、それは自然淘汰される。

自分の意見をインターネット上で発表し、いいねを押してそれに参加する。実際にアフリカの独立運動の例もある。日本においても、社会運動の新たな未来はもうすぐそこに来ているのだ。

 

2016/5/1

初めてのブログ記事と、反省会

タイトルそのまんまである。

このサイトは日曜日更新と銘打って開設したのだが、2つ目の記事絶対音感は持っていたほうがいいのか?が公開されたのは2016/4/24(日) 23:59 である。

 

裁判で戦ったら勝てると思うが、それでもあまりに計画性のない私を悲しく思う。

誰が来るんだ、とか、自己満足じゃないのか、とかは脇に置いて、とりあえず決まった日付に決まった量を更新する、そのコンスタントな姿勢こそが大切なんじゃないかと思う。

人気のクリエイターとかを見ていたらみんなそうだ。毎日欠かさず、定期的に。それがたぶん、ものを創る上での大原則なんだろう。

 

来週からは土曜日に記事を書こう。そして日付が変わったらすぐに更新しよう。

そう心に誓った、深夜0時。いつまで続くやら、お先は真っ暗。

絶対音感は持っていたほうがいいのか?

音を聞いただけでその音が何Hzかが分かってしまう。そんな便利な能力、絶対音感

この能力は、演奏をする際に非常に役に立つ。早い段階で暗譜することが可能だし、自分の音程が外れていたらすぐに修正できる。カラオケなんかだと割と高得点が出せるのだ。

絶対音感は、小さいころから何かしらの楽器を習っている人は、結構な確率で持っている。 逆に言うと、幼少期に絶対音感を身に付けなかったら、この先一生絶対音感を習得する機会は得られない。後から楽器を始めた人からすれば、辛い話であろう。

 

かくいう私も、1Hz単位での判断はできないものの、絶対音感みたいなものを持っている。「ド」という音を聞いたら「ド」と聞こえるのだ。

私はこの能力に頼っていろいろ演奏してきた節もある。僕はこの能力に感謝しているし、幼少期に楽器を習って良かったと思う。

 

しかしながら、絶対音感を持っているということがその人にとって本当に幸せなのだろうか。

極端な例を挙げると、ある人は、掃除機の音を聞いているだけで「音程」に聞こえてしまい、とても耳障りだそうだ。

そこまで優れた音感を持っていなくても、オーケストラの演奏とかを聞いていると、すべての音が「ド」とか「レ」とか「ファ」とか、なにか言葉を発しているように聞こえてきて、苛立ってしまうこともある。これは私も何度も経験することだ。

 

こうなると、ふと思ってしまう。もしも私に絶対音感がなければ、もっと純粋に音楽を楽しめるのではないか、と。

でも絶対音感がなければ、小さいころに楽器を習っていなければ、音楽にあまり興味を示さなかっただろう。

結局、ジレンマに陥るのだ。

 

ある調査によると、日本人の絶対音感を持っている割合は3%で、対して日本の音大生のうち絶対音感を持っている割合は3割らしい。

やはり絶対音感を持っていると、幼少期から楽器を習っていると、音楽の道にすすむ割合というのは高くなる。しかし、絶対音感を持たずに育った人でも、後になって音楽の道に進む人も大勢いる。

 

結局言いたいのは、音感があろうがなかろうが、音楽の楽しみ方というのは人それぞれである。無いものを渇望して、有るものに苦悩するのは、意義のないことである。

2016/4/24

サイト開設にあたって ―― インターネットと、思考の相互干渉

最近のインターネットの普及により浮かび上がった問題、それは情報の氾濫である。

 

インターネット・ウェブサイトを通じて、私たちはたくさんの情報を行き来させる。それは生活のなかのちょっとした知恵袋であったり、諸製品のレビューであったり、さらに大企業の知られざる裏側――私たちが普通に生活していては得られないようなもの、いわゆる「タブー」的な情報でさえも手に入れられる。これらの情報は我々の生活に多大な影響を与えている。

ただ、それと同時に、誤った情報や、悪意のある誹謗、さらに一見真実のように思えてしまうような、意図的にコントロールされたものなど、そういったものも流布してしまう。多少の刺激のあるニュースは、その真偽にかかわらず瞬く間に広められ、たとえ後で間違いを訂正したとしてももう手遅れなのだ。

そんな社会において大切なのは、情報を正確に取捨選択できる能力――いわゆるネットリテラシーだと言われている。インターネットの爆発的な普及に、学校での情報教育が追い付いていないため、未だに浸透していない。この能力を皆が持っていれば、少なくともデマに踊らされたり、不用意に個人情報をネット上に晒すようなことはなくなるだろう。

 

ではここで、インターネットの無かった時代のことを考えてみよう。情報の氾濫というネット独自の問題点がなかった当時は、正しく情報を判断し、正確にものごとを捉えられていたのだろうか。

そんなことは決してない。情報の絶対量そのものは今よりも少ないかもしれないが、それでもその一昔前の人々もまた、メディアのいうことを鵜呑みにして、度々騒ぎとなった。

インターネットがあろうがなかろうが、ネットリテラシーがあろうがなかろうが、我々は、情報から物事を正しく判断する能力が弱い。それはインターネットの出現に伴う問題なのでなく、そもそも初めから皆が持っている問題なのだ。

 

情報の真偽を判断する能力は持っていて然るべきものなのであって、我々が今議論しなければならないのはこれだ。「情報から正確にものごとを捉えるにはどうすればいいか?」

 

 

さて私が考えるに、個々の深い考察による相互ネットワーク形成、これしかないのではないだろうか。

一人ひとりの、あるいは少数の集団による考察には、どうしても多少の間違いが生じてしまう。今までのメディア・モデルだと、ある一つの問題に対して、何人かの専門家達が議論を交わし、それを何人かの編集者がまとめあげ、それを何百万人という人々が見物する。要するにたった数人で出来上がった「アイディア」が、何百万人の中の「常識」になってしまうのだ。これでは正確な判断はできまいし、さらに意見誘導も容易く実行できうる。

私の考えの中では、国民全員が「専門家達」であり、国民全員が「編集者」であり、さらに国民全員が「人々」なのだ。

 

つまりこういうことだ。 ある問題が提唱されたときに、各人はそれぞれ正確な情報を仕入れ、時間をかけてその問題に対し考察をする。そうすることで、各人の中にはある程度まとまった「意思」が芽生えるだろう(その際、決して専門的な知識というのは必要ない。必要ならば、その専門的な知識を持っている人の考察から情報を取得すればよいのだ)。 その状態で、他の人と「交流」する。ここでいう「交流」とは様々だ。実世界での日常会話のふとした話題に上ったり、ネット上にその「意思」を成文化して流したり(その形式も、コメントやブログなど、多岐に渡る)、極端に言うと、ただ会うだけでも十分「交流」に含まれる。そうすることで、自らの「意思」が軌道修正される。相手の「意思」のほうがより良いと感じればそちらに傾くし、逆に自分の「意思」のほうが優れていると感じたら、自分のものがより強固になる。 そうしてお互いに軌道修正していくうちに、いつしか正確に物事を捉えることが出来るようになるのだ。

 

勿論、理想論と言われればそうであるとしか言いようがない。国民全員、お互いにそういうことを実際するのかというとそうではないし、さらにここでは「正確」というものの定義が、「皆が同意する」というものとなってしまい、全体として間違った方向に向かってしまう可能性も捨てきれない。

 

だが私のこの理論には、もうちょっと現実的な場合に当てはめて考えることもできる。これらの交流が、主にインターネット上で行われたとする。その際にポイントが3つある。

まず当然のことではあるが、世界中の様々な人と、いつでも無料で意見交換が出来る。これは、考察や批評を生業としていないものでも、気軽に議論に参加出来ることをも意味する。

次に、インターネットに書き込むということは、日常会話とは根本的に性質が異なる(twitterなどの例外もあるが)。自分の意見が「間違って」いたならば遠慮なく叩かれるし、証拠ははっきりとログとして残るため、安易に発言することが出来ない。さらに暴言や罵倒を禁止した環境を作ると、ある程度の質と正確性を保った「交流」が可能であろう。

また、インターネットの匿名性は、現時点での常識から外れた考察ですら容易に提唱することが出来る。一般的慣習や風俗から分かたれた、斬新で革新的な発想が生まれるかもしれない。

 

こうした条件がそろうと、日本国民全員とまではいかなくても、今よりもずっと多い人数が議論に参加することになる。その結果、より「正しい」方向性を持った判断というよりはむしろ、より「洗練された」判断が生まれる。

ある問題に対する絶対的な解決法というものは現実的には存在しないし、価値観は人によって様々であろう。

しかし、今までのメディア・モデルとは比較にならない程の多大な量の考察により、少なくとも現時点よりは、より皆が納得できるような、相対的に「正しい」捉え方ができることになる。

つまり、インターネットの出現というのは、人類が今まで成し得ることのできなかった究極の問題を解決するための糸口でもあるのだ。

 

 

そういったことを踏まえて、私はこのサイトで、いろいろな物事に対して独自の考察を記していきたいと考えている。間違いも、勘違いも多く含まれることだろう。しかし、「深く考察」し、「意思」を持ち、それをインターネット上に流し他人と「交流」させることで、先ほどのロジックにより、全体として正しい方向に進んでいくと信じている。

そしてもちろんこの文章自体も、そのロジックに組み込まれているのだ。

 

2016/4/17