こんちゅう

エッセイ・小説・ブログ・楽譜置き場。 不定期更新。

今週の一言

今週はエッセイの投稿はなし。ちょっと本当に文体変えようか悩んでる。さすがに堅苦しいし見にくいしなにより書きにくい。

来週はたぶん小説を投稿することになるかも。

 

さっき見かけた記事。

http://www.nagasaki-np.co.jp/news/senkyo/2016/06/28104014.shtml

長崎にいる18歳、19歳の今のところの投票先。なんと自民党が圧勝していました。

括目すべきは「日本のこころを大切にする党」が3位の4・36%であること。まぁぶっちゃけ母数が少ない(482人)ので実際に回答した人は20人ほどなのですが。それでも全世代を含めた調査からすると非常に高い値です。

「日本の~」と言えば(詳しくは知らないですが)今ある党の中では右寄り。この時期なので政党自体の良し悪しはおいておいて(詳しく知らないだけですが)、やはり若者の右傾化、というかネット社会の影響というのはものすごいんだなぁと感じます。

 

面白いのがそれに対する長崎新聞記者のコメント。

県内での政治活動がほとんど見られない中、「こころ」「大切」のキーワードが共感を得た可能性も。

 

お、おう・・・

的外れというかなんというか、選挙というものは駅前で大声でコールすることなんだという、長年にわたって染みついてしまった固定観念なんでしょうね。ちょっと今の大学生&高校生を馬鹿にしすぎなのでは。

正直なところ、私は「選挙運動」をする意味がさっぱり分からないのです。3週間前になって示し合わせたかのように(実際示し合わせているのですが)騒音を鳴らしながら町中を車で走ることが政治家のやることなのでしょうか。それでもし自身の得票率が上がったら今まで真面目に政治活動してきた人が可愛そうでしょう(いや、それは違うのかな)。

 

そもそも、18,19才の人たちなんて、全有権者からすれば微々たる数なのですが。一億人の有権者のなかのたった200万人。労働組合や宗教などで強力な地盤を持っている自民党民進党共産党公明党からすれば、その中の4・36%の人が「日本のこころ」に投票したところでって感じなんでしょうね。

 

まぁそんなわけで、日本のというか世界の政治体制というものはもうしばらくは崩れないでしょう。ただ投票することは大切なので、家から出るのは面倒くさいかもですが投票行ってくださいね。最近暑いけど。ロシアに住みたい。

 

2016/7/3

謝罪哲学

あらゆる人間の感情表現のなかで、謝罪ほど興味深く、複雑なものはない。

というのも、謝罪には2つの意味が存在しているからだ。ひとつは、本心から許しを請う行為であり、もうひとつは、その場を乗り切るための戦術的行為だ。

前者は教科書的な、そのままの意味として置いておいて、では後者の意味は一体何を表しているのだろうか。

 

戦略的に謝罪をする。謝罪する側の立場からすれば、それは劣勢となっている現在の自らの立場を最終的に戻そうとする行為であり、謝罪される側の立場からすれば、それは実際なんの意味もないことに気づく。そりゃそうだ、一応謝罪は受けたものの、相手が本当に反省しているのかなんてこちらからは判別できない。

逆に、謝罪する立場からすれば、自分が反省していようがしていまいがある程度場が収まる、とっておきの隠し武器のようなものだ。

 

それでもこの世の中は謝罪であふれている。

謝罪する事の本態は、詫びた方、または詫びられた方、または双方の再出発(reset)の為の手続きや、セレモニー(儀式)である。

wikipediaより引用。謝罪とは手続きであり、儀式である。つまり、謝罪するという行為自体が、争いや討論の文脈に既に含められているのだ。反省だとか、許しを請うとかの意味は持ち合わせていない。

プライドの刃は捨てなくてもいい、一度下に置くだけです

漫画「暗殺教室」で、殺せんせーがカルマ君に放った言葉。必ずしも謝罪することで自尊心が傷つけられるわけではなく、本当に自分のやったことが正しいと思っているならば、それは保たれる、という意味。こちらも、「謝罪」という感情表現自体の形骸化を示している。

 

 

ただ、ここで確認しておきたいことは、謝罪というものは本質的には、自らのプライドは傷付けられ、相手に優越感を覚えさせる行為だということだ。

人間とは優越感を持つことで悦びを覚える生き物だ。それは本能であり、理性である程度コントロールできるとはいえ、決して逃れられない感情である。

逆に人間とは、自尊心、つまりアイデンティティーで成り立っている生き物だ。この前の「宗教と平和」の記事でも述べたが、アイデンティティーが無くなるということはつまり、自分の生きている意味がなくなるということであり、人はそれを避けるようにプログラムされている。

 

いくら社会が多層化、複雑化し、謝罪という行為がルーティンとなったとしても、人間の本能からは逃れられることができない。人は劣勢になったとき、自らの「隠し武器」を用いて戦おうとするが、それと同時に、自らの人間らしい心は失われていく

子供は大人を見て育つ。TVなどで謝罪会見をする老人たちを見て、一体彼らは何を感じ取るのだろうか。人間の感情表現としての謝罪を、する側であれされる側であれ、我々は失ってはならない。

 

2016/6/26

宗教と平和③

http://www25107ue.sakura.ne.jp:25000/zaru/wotto/archives/119

http://www25107ue.sakura.ne.jp:25000/zaru/wotto/archives/128

争いというものはすべて、個人的ないし民族的アイデンティティーが侵されたときに発生する。それならば、どうして宗教というものを特別扱いし、宗教戦争という枠組みを作り上げることに意味があるのだろうか?

もととなるものが宗教なのか、国なのか、民族なのか、違いは本当にそれだけである。さらに言えば、それらが複数個つながっていることも多い。

裏を返せば、たとえこの世から宗教がなくなったって、この世から争いは消えない。なぜなら、宗教という拠り所が無くとも、人々はほかのものに頼りすがるだけだからだ。「宗教」という人間の「死への恐怖」を利用したものが、たまたま人間の歴史のなかで繁栄しただけなのだ。

 

つまり、冒頭で述べた「宗教が無くなれば争いは減るのかどうか」とか、「宗教間の相互理解で云々」とかは、こうしてみると次元の低い話になってくる。宗教とはアイデンティティーの単なる構成要素に過ぎない。それが無くなったって人々のアイデンティティーが消えるわけじゃない。

宗教のみならず民族や国家といった要素まで消して、地球市民として生きていこうという人がいるかもしれない。それが現実になったとして、一体世界はどうなるかは誰にもわからない。わからないけれど私には、人類が緩やかな崩壊を迎えていくような気がして仕方がない。そのあたりは機会があれば別の記事で。

 

さてまとめに入ろう。現在、世界では宗教による対立が続いている。それらを解決する「根本となる」考え方とは何だろうか。個人的、民族的アイデンティティーの概念に照らし合わせて、私は「生活環境をよくすること」、この一言だけで言い表せると思う。

一記事目、二記事目で述べた通り、いわゆる先進国と発展途上国では生活環境に大きな差があって、それがもとでアイデンティティーを構成する要素も大きく違ってくる。厳しい環境だとアイデンティティーには宗教や国家、民族といった「争いを生みやすい」構成要素を取り入れなければならないが、環境がより良くなるにしたがって、そういった要素というのは自然と薄まっていき、代わりにもっと自由で素敵なものが含まれてくる。それこそが理想的な社会の状態であり、我々現代人が目指すべき目標なのではないだろうか。

 

この考えには「理想論だ」と思う人も多いだろう。しかし私は、「現実に即した対応策」というのは「理想論」に従って初めて本当の効果を発揮するものだと信じている。

「もちろん、私は平和論者で、世界平和に越したことがない」と書いてある文章が私は大嫌いだ。彼らは結局、囚人のジレンマに縛られているに過ぎない。もっと自由で俯瞰的な発想が、現代日本には必要なのではないだろうか。

 

2016/6/19

 

宗教と平和②

http://www25107ue.sakura.ne.jp:25000/zaru/wotto/archives/119

 

逆に後進国、治安の良くない国だったらどうだろうか。不安定な生活に、危険な社会情勢・・・そういった国々で人は、平たく言うと人生の意義を感じにくい(ここでいう人生の意義とは先進国視点のものだが)。そうすると人々は、自分の存在意義を、何か別の、大きなものに置こうとする。すなわち、宗教だ。宗教による自己のアイデンティティーの規定の比率が高いのだ。

そういった人々が集まり集団となり、国家やグループが出来てくる。人々の生まれた環境により宗教を信じるのか、それともそういった宗教を信じる人たちが集まってコミュニティを形成したかは「鶏が先か卵が先か」で、本質的ではない。

 

ではここで、現代における宗教紛争がどうして起こるのか考えたい。宗教の違いにより起こるのだろうか。「偉大なる神○×の教えにあいつらは背いていやがる。これは神に対する冒涜だ。」・・・そういった純粋な考えからきているのかと言われれば、一部を除いてそれは違うと思う。では宗教というものは国家や組織における「大義名分」のようなものなのだろうか・・・やはりそれもズレている。そういった騙しだましの戦いなど、トップはともかく、構成員たちを支え続けていくことは不可能だ。

どうして宗教間での争いが起こるのか。私が考えるに、宗教の違いにより対立ではなく、宗教に大きく影響された個人のアイデンティティ、さらにその集団の民族的なアイデンティティーの存在が危ぶまれたときに発生するものだと思う。自分の存在意義が無くなろうとすると必死にそれを取り返そうとする、これはすべての人において共通のことだ。もしある集団が、何らかの事情により自分たちの存在が危ぶまれたらどうなるだろうか?彼らは奮起し、その際自分たちの原点となっているもの、つまりそれがもとに集団としてのアイデンティティーが確立されているようなもの、を看板に掲げて行動するのだ。

 

このことは実は宗教だけでなく、民族間、国家間の問題、紛争にもすべて当てはまる。違いを生むのは、何が彼らの拠り所となっているか、その一点のみである。

 

2016/6/12

続き

http://www25107ue.sakura.ne.jp:25000/zaru/wotto/archives/131

宗教と平和①

世界中の人々はみな、なにかしらの「宗教」を信じている。キリスト教イスラム教、仏教・・・メジャーなものから新興宗教まで、たくさんの宗教が存在している。

そして宗教というものは今日に至るまで、宗教戦争や最近のイスラム国など、数多くの争いを引き起こしてきた。それらは本来の「宗教の教え」とは相反して起こるのだ。

では「宗教」という概念が無くなれば戦争は減り、世界は平和へと向かうのだろうか?それとも、「神」という抑止力がなくなり、世界はより混沌となるのだろうか?

 

 

最初に、日本において「宗教」とはどういうものなのだろう。

日本人はよく、宗教観が薄いといわれる。一応大多数の人は仏教を信じているはずだが、日常的に仏教の教えが浸透しているわけではない。他の宗教も然りだ。

しかしながら、日本人が宗教により多大な影響を受けているものがある。それは「死生観」だ。科学が発達し、身近なあらゆる現象を論理的に説明できるようになった今日でも、死んだらどうなるかということは説明ができない。いや、もしかしたら説明できるのかもしれないが、それは我々にとってあまりに残酷なものなのだ。

そういうわけで人々は、自らの死生観を「宗教」に置くことが多い。仏教でいうと「輪廻転生」、キリスト教でいうと「天国と地獄」だ。何千年もの間人々に信頼され続けたその「神聖なる」力に私たちは、安心して己の存在意義を見出すことができるのだ。

つまり宗教というものは、自己のアイデンティティー形成に大きな影響を与えている

 

では海外の国ではどうなのだろう。

彼らは日本人よりも宗教に熱心だ。聖書を読み、キリストを崇拝する。神を絶対的なものと位置付け、恐れ敬う。でも私は、先進国において宗教というものは日本と変わらない扱いだろうと考える。

なぜか。上で述べたように、宗教は自己のアイデンティティー形成に大いに役立っている。アイデンティティーというのは自己認識で、この世を生きていく上で欠かせない。しかし、先進国の人間は、別に宗教に自己意識を置かなくても、容易に他のもので代替することができる。充実した生活に、安心できる社会保障。そういった国において人々は、平たく言うと人生の意義を感じやすいのだ。研究の道に走るのもいいし、ミュージシャンになって世界中に自分の歌声を響かせようと夢を持つのもいい。つまり、宗教に頼りすぎなくても自己のアイデンティティーを確立させることができるのだ。

自分の力でどうしようもできないもの、例えば死に関することがらなんかは、宗教の力を頼らざるを得ない。そういった感じで、先進国において宗教は細々と生きながらえている。

 

続き

http://www25107ue.sakura.ne.jp:25000/zaru/wotto/archives/128

2016/6/5

今までの振り返りと、再出発

6月になりました。このサイトを作ろうと思ってから一ヶ月半が過ぎました。

飽きっぽい私にしてはよく続いている方だと思うな。

山場は3ヶ月。そこをなんとか超えたい所です。

 

今までの反省。

エッセイのジャンルが固まりすぎましたね。もっと別の話題も出せたらいいな。

あと、常体敬体は未だに悩んでいる。一度実験的に、敬体文で書いてみようか。

 

さて6月になり、新しく「小説」も投稿することになりました。

思いついて書きあがった段階で上げるので不定期になります。一ヶ月に一回は出したいところ。

それでは。

2016/6/1