こんちゅう

エッセイ・小説・ブログ・楽譜置き場。 不定期更新。

「日の丸」を科学する(一日一冊、2/14)

今日はタイトルの通り,「「日の丸」を科学する」という本を読んだ.まず批判から入ってしまうのだが,タイトルがよくない.「科学する」と銘打つ意図としてはおそらく,しっかりと文献や資料などに基づいた考察を行う,ということだろうが,それは本として至極当然のことである.日の丸という(当時にすれば)センシティブな話題ではあるのだが,感情論ではなく証拠に基づいていることをいちいち言わないといけないところに日本の”有識者”のレベルの低さに落胆する.

 

それはともかくとして,この本はタイトルの意図したとおりかなり中立であったような気がするし,内容自体も面白かった.
まず「日の丸」の起源について述べられ,さらに,「日の丸」に関する法律,他の国の国旗との関連,国旗に関するエチケットなどが書かれていた.驚いたことに,「日の丸」の正式なデザインは法律で定められていないらしい.

筆者は日本を代表する旗章学者であるので,国旗や日の丸に興味のある人は是非読んでみるといい.幼い頃から慣れ親しんでいるはずの日の丸について,私達の知らない情報がたくさん載ってある.

 

 

さて,ここからは少し政治的な話題になるので,極力言葉を選んで書く.日本には「日の丸」や「国歌」に対して嫌悪感を持つ人も多く存在する.それを知ったのは大阪の国旗国歌条例で,国歌斉唱のさいに起立しない職員が処罰されたニュースを見たときだ.私としては「ちょっと起立すればいいだけなのにどうして拒否するのだろう」と不思議がっていたのを覚えている.

日本は「日の丸」を掲げて軍国主義に走り,数多くの過ちをおかし,尊い命を奪っていった過去がある.そのことから,日の丸を軍国主義の象徴とみなし,国旗や国歌というものに対して反発する人が多いという.

しかし,私は違うと感じている.国旗や国歌のもとに,日の丸や君が代のもとに,私達日本人が存在しているのではない.はじめに日本人がいて,そして政府が,国が,国旗が,国歌が存在するのだと思う.
過去に軍国主義に走ったのは日本人だ.しかし今はそれを反省し,今は民主国家として世界のリーダーシップをとることを期待されるまでに成長した.私達は日本を,日の丸を,平和の象徴として掲げている.そしてそれは私達の誇りだ.私は,戦争でお国のために亡くなっていった人たちに最大限の敬意を払いたい.そして,貴方達が守ろうとした国は,日本は,日の丸は,過去の過ちを反省し,今や平和の象徴として掲げられているのだということを,日の丸を掲げ続けることで示したいのだ.

結局,旗というのは(少なくとも日本においては)シンボルでしかない.逆に言うと,そのシンボルを否定することは日本人を否定することに等しい.最近,某旗について近隣諸国と色々揉めているが,そんなゴタゴタは日本においても散々やってきた.旗がシンボルにすぎないこと,日本人は過去と違い明確に平和を目指していること,そして今,日の丸が日本でも,世界でも受け入れられていることを考え,某旗についても認めてもらいたいものだと,個人的にひっそりと思う.

 

 

「日の丸」を科学する

「日の丸」を科学する

 

 

おのぞみの結末(一日一冊、2/13)

ここ数日は少し忙しいので,簡単に読める本ばかりを選んだ.

今日は「おのぞみの結末」,星新一ショートショート集だ.
星新一ショートショートというと,どこか小中学生向けなイメージを持たれるかもしれないが,私は大好きだ.
非常に短い小説ながら,最後の最後までオチが全く見えてこない.このワクワク感がたまらない.

さらにもう一つ注目したい要素がある.挿絵だ.星新一の挿絵は真鍋博という人物がしばし担当しているのだが,その世界観がたまらない.無国籍で無機質な星新一の小説をほのかに色づける,その塩梅がぴったりなのだ.

ちなみに,私は1年前くらいに,国立国会図書館の「挿絵の世界」という企画展示を見に行ったことがあり,そこに星新一の「ボッコちゃん」の初出雑誌が展示されていたのだが,そこに掲載されている挿絵も彼のものであった.
その雑誌の刊行日は1962年である.これだけ長く人々に愛されていながら,なお古めかしさを帯びないこのコンビは,日本において他にはなかなかないのではなかろうか.

 

おのぞみの結末 (新潮文庫)

おのぞみの結末 (新潮文庫)

 

 

日本のミイラ仏をたずねて (一日一冊、2/12)

今日は,私の人生にとって記念すべき日となった.
難波に行き,私の大切な,20年間連れ添ったたいせつなものを「捨てて」きたのだ.

捨てる前は,ああ本当にこれで捨てるのかという実感はなかったが,緊張はしていた.もし手順を間違えたらどうしよう,恥をかくに違いないなどという思考が私の脳をよぎる.
しかし,一緒に着いてきてくれた友人のおかげでなんとか精神を保ち,無事にこなすことができた.今日この日を迎えるにあたって,これまで私のことを暖かく見守ってくれた全ての関係者の方々に感謝の意を示したい.

 


言うまでもなくスタバの話である.カフェモカ?とかいうのを頼みました.生クリームとほんのり香るチョコレートが口の中で交わり,とても美味しかったです.カップも新鮮で驚いた.

 

さて,本日読んだのは「日本のミイラ仏をたずねて」(土方正志,1996,晶文社)だ.ここ最近まともな本が続いていたので,いっちょここらで「なんだこれ?訳わかんねえwこんな本読んで何の得になるんww」みたいな本を引き当てたいと思い,タイトルからしてネタ臭のする本を選んだ.
選んだつもりであったが,実はびっくり,この本,めちゃくちゃ面白かった.少なくとも今回の企画で読んだ本のなかでは一番だ.

ミイラ仏とは,寺のもとで修行を積んだ僧侶(たいていの場合,彼らは京都の寺で修行を積んで全国に散らばったような「由緒正しき」お坊さんではなく,もとは普通に暮らしていて,その生活を捨ててお寺に弟子入りした人たちである通称”行人”であったらしい)が,自らの死の前に弟子たちに頼んで,死体を保存させ,修行者が瞑想を続けて絶命しそのままミイラとなる「即身仏」になることである.
これだけ聞くと(少なくとも私は)ぎょっとしてしまったのだが,何十年か前は,それらミイラ仏がTVや雑誌で特集されたり,修学旅行で見学するなど,世間の人たちにある程度知られた存在であったようだ.

現在まで保管されているミイラ仏は(この本が書かれた当時では)わずか18体しか確認されていない.ところが,それら一体一体に,修行者がミイラとなった経緯や伝説,エピソードがある.非常に興味深いことに,それらのエピソードは「交差する」――つまり,ミイラ仏が誕生した時代も,土地も,全然異なるのに,それらの誕生には他のミイラ仏の存在や,歴史,風土などが強く影響する.これらミイラが織りなす多層的な世界観に,きっと読者は歴史の神秘的な魅力を感じることであろう.

また,ミイラ仏といういかにも暗くなりそうな対象とは裏腹に,この著者の語り口がいかにも軽快で面白い.私が気に入っている一節を引用しよう.

真言宗の開祖,弘法大師空海が,高野山の奥で即身仏となっているという伝説がある.この伝説にあこがれて,のちの世の後継者たちが続々と土中入定を遂げた.なにしろ空海には「即身成仏義」なる著書まであるのだ.
だが,「即身成仏義」と即身仏はじつのところまったく関係がない.空海の説いた「即身成仏」とは,修行を積めば生身のままジョブウツできる,つまり生身のままで悟りを得ることが出来るというものだ.
なにもミイラになれなんていってはいない.

この本,実は昨年8月に復刻されたらしい.興味のある人は,ぜひ読んでみてはいかが.

 

新編 日本のミイラ仏をたずねて

新編 日本のミイラ仏をたずねて

 

 

日本やきもの史入門 (一日一冊、2/11)

 本日選んだのは「日本やきもの史入門」(矢部良明、1992、新潮社)
である。私はやきものに関する知識は全くないので、写真が多く入っており、かつページ数がない本書は有難い存在であった。

 

内容としてはタイトルの通り、日本における陶芸の歴史を縄文時代から辿っていく。ここで「縄文時代から」と書いたが実はこれは循環論法のようなもので、なぜなら日本において縄文土器を使用していた時期が縄文時代弥生土器を使用していた時期が弥生時代と定義してしているからだ。(もちろん、このことは小学校あたりで習ったはずなのだが、教養のない私はこの本で再び出合うまですっかり頭から抜け落ちていた)つまり、それほど土器というものは日本人にとって由緒正しい歴史と伝統を持つということである。

この本には、やきものがどのような形で発展していったかを、様々なカラー図を共に明快に記されている。
中国や朝鮮からの影響や、貴族の嗜みから民間人への需要の推移、江戸時代における長崎からの輸出の需要に応えるための様々な装飾の開発、日本各地の窯場の栄枯盛衰など、やきものにも一筋縄ではいかない歴史があるらしい。

この薄い本を読むだけで、日本のやきもののざっくりした歴史は把握できるし、日本各地のやきものがどのようなルーツを持ったものなのかも理解できるだろう。非常に面白かった。教養としても十分に読む価値があると感じた。

 

ただ私が、デパートで売っているようなクソ高いやきものを欲しいかどうかは、また別の話である。

 

日本やきもの史入門 (とんぼの本)

日本やきもの史入門 (とんぼの本)

 

 

地図通になる本(一日一冊、2/10)

今日は少し肌寒かったが、すごく良いお出かけ日和だった。さわやかに晴れた冬の空が、果てしなく続く荒野をおだやかに照らしていた。その中をざくざく歩くことの、なんと気持ちのいいものか。

 

要するにド田舎である。

 

先日までの本がどこか大学生向けの教科書寄りといった感じだったので、今日は趣向を変えてみた。
「地図通になる本」(1997、立正大学マップの会、オーエス出版社)
この本は、社会人向けに書かれた「地図の読み方」であるが、内容としてはかなり高校地理に近い。地図の歴史や、地図投影法、さらに地図から読み取れる様々な地形(海岸段丘や砂嘴など)の解説、さらに私たちでもできるような簡単な測量法などが紹介されている。
高校で地理を勉強した人たちにとっては、とても懐かしく感じるのではなかろうか。勉強していない人にとっては、かなり新鮮な内容に思えるかもしれない。

この本は20年ほど前に出版されたので、もちろんGoogle Earthの存在していない時代である。現代からすると「Google Earthでいいじゃん」となりがちな地図だが、それでもこの本は昔ながらの地図(つまり、国土地理院が発行している25000/1や50000/1の地図)の魅力を存分に語っている。


そして元々地理好きな私なんかは、「ああ、自分で測量して地図を作りたい!」と、簡単に影響されるわけだ。今度どこか一人で旅行するときは、地形図を買い、コンパスを買い、その土地特有の地形のある場所へ行き、測量をして、自分なりの地図を作り、それを国土地理院の発行する地形図と見比べる遊びをしたいなと思っている。
この本はそういう意味で、もともと地理にめちゃくちゃ詳しい人が見ると当たり前のことしか書かれていないが、そうでない人からすると魅力的な本だ。読む価値は十分にあるだろう。

 

地図通になる本

地図通になる本

 

 

はじめて学ぶパーソナリティ心理学 (一日一冊、2/9)

今日は大阪に、私の成人祝いということでお寿司を食べに行った。
念願の「回っていない回らない寿司」である。イカは醤油ではなく塩で食べるという話が本当だったんだと知った。
ワサビも今まで食べたことないくらい上品な味わいで、非常においしかった。満足。

 

さて、本日は「はじめて学ぶパーソナリティ心理学」(小塩真司、2010、ミネルヴァ書房)を読んだ。著者は名古屋大学卒業、出版当時は中部大学の准教授で、現在は早稲田大学の教授をしているらしい。研究室のサイトを除くと、どうやら心理データ解析、尺度作成などを精力的に行っているようだ。

読んだきっかけは、私が今期、京都大学の講義「健康心理学I」で様々な精神疾患について学んだが、そのなかでパーソナリティが「精神疾患とまでは判断されないが、その人の性格、特徴を表すもの」と紹介されており、図書館をブラブラしていたときたまたま「パーソナリティ」という単語を発見し、手に取ったという訳だ。つまりたまたま。

 

この本はタイトルからも推測できる通り、主に大学に入ったばかりの学生に対する心理学の講義の教科書として執筆されているが、読み物としても十分面白いようになっている。主な内容は、
・パーソナリティの定義、パーソナリティを測る検査としてどのようなものが適当なのか
・類型論と特性論について、そしてパーソナリティは特性論によって語られるべきであること
・世間で普及している血液型検査や、パーソナリティが遺伝からくるか環境からくるかなどの議論に対する見解

などである。

初学生向けの本ということで非常にかんたんに書かれているので、一部の人にとっては冗長に(特に後半は)思えるかもしれない。だが全体の流れとしてうまく纏まっており、筆者の伝えたいことはきっちり伝わってくる。
特に、パーソナリティやIQを図る検査としての要請についての説明は非常に興味深かった。おそらく心理学の実験などではさまざまな尺度を図る質問や実験を用意するだろうが、それが満たすべき条件をひとつひとつ丁寧に解説されており、我々が普段用いる、もしくは私が受けた「健康心理学I」で学んだような検査はこのようにして成り立っているのだなと感心した。教養としても意義のある内容なので、心理学に少し興味があれば十分読む価値のある本だと思った。

 

はじめて学ぶパーソナリティ心理学―個性をめぐる冒険

はじめて学ぶパーソナリティ心理学―個性をめぐる冒険

 

 

経済はナショナリズムで動く (一日一冊、2/8)

この日は友人と昼から遊んでいて、帰ってくるころには疲れてすぐ寝てしまった。
というわけでこの文章を書いているのは翌日、つまり2/9だ。三日坊主とはよく言ったもので、つまりそのまま私のことである。

かといってここで辞めたら本当の莫迦なので、今日この文章を書こうと思う(ちなみに半分くらいは2/8に読み、もう半分は2/9に読んだ)

 

今日の一冊は経済学から、「経済はナショナリズムで動く」(中野剛志,2008,PHP研究所)という、東京大学出身で現在経済産業省に勤めている人の書いた、少し古い一冊だ。


内容を要約すると、今の時代はグローバリゼーションだ経済自由主義だなんだ騒がれているが、実は現時点で世界の経済を動かしているのはナショナリズムで、我々日本もそれを理解したうえで適切に「国力」をつける政策をとらねばならない。
さらに言うと、よく言われるグローバルな国際機関を編成して国民国家の枠組みを超えた問題対処を目指そうなどいう意見は非現実的で、国民国家をベースとした解決を目指すべきである、という主張が展開されている。

 

正直に言うと、内容が一般市民にもわかるように噛み砕かれて説明されているということを考慮しても、「これって当たり前のことじゃない?」という感想がまず出てきた。アメリカやヨーロッパなどが経済自由主義を推し進める(今は少し状況が違うが)のも何をどう考えても自国の利益のためだし、そのためにわざわざ様々な用語を定義し、日本や世界の状況に無理やり当てはめ、強引にシステマティックに解説しているような印象を受けた。

 

あくまで素人目線での話だが、この本は凡庸だなと思いあとがきを読んでいたら、しかしそこには驚くべきことが書かれていた。
――もし、この時流に逆行するタイトルに興味をそそられて読み始めた読者が「なんだ、当たり前のことが書いてあるだけじゃないか」という感想を持ったならば、本著の目的は十分に達成されたことになるのである――

この一文を見たとたん、私はこの本が出版された2008年の頃を思い出していた。そう、自民党から民主党政権交代せんというとき、もちろんまだ第2次安倍内閣など成立していないのである。
安倍内閣の「アベノミクス」は、間違いなくこの本に書かれている「国力を増強する」方向に進んだ政策である。我々世代とすれば、(それに対しどのような評価を下すかはともかく)アベノミクスのおかげでこれらの論理は自然に理解できるが、もしかすると2008年段階ではあまりそのような思考は世に広まっていなかったのかもしれない。

なるほど、では今現在、この著者は安倍内閣の経済政策を評価しているのだろうかと、最近の著書を調べたところ、2018年に「日本の没落」という新刊を出している。どうやら全然満足いかないらしい。今度読むつもりだ。

 

 

経済はナショナリズムで動く

経済はナショナリズムで動く